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八百万の神に問う 4巻(完) 感想





割と最初の方から、タイトルの「八百万の神」には、「読者」が含まれているのではないか、という考えを持っていた。作者はイーオンが提示する論理を読者に受け入れさせることで、間接的な自己肯定を行っているのではないか。イーオンという死に体の音導師――楽土によって生かされ、楽土を憎む存在――は作者の写し身で、それに対立する音導師の存在は、作者の内外にある自分一人では否定しきれない論理的な壁なのではないか、と。

恐らくこの作品は構造的な欠陥を孕んでしまっている。作者の想いとストーリーとを複雑に絡ませておきながら、物語の最後で論理が空中分解を起こしてしまっている。著者の主張と結論がしっかりと噛み合っていない。作者のやりたいことと物語の着地点が同一ではない。だから感動的な展開ではありながらも、どこかまとまりにかけた散漫な印象を受けてしまう。

私は、特に3巻の論理構造に納得することが出来なかった――ミサキの掲げた、「辛いことは忘れてもいい」という論理に心から共感することが出来なかった。いいことを言っているのには違いないし、死に往くものに対して鞭打つのも気が引けるが、それでもあの意見にはどこか腑に落ちない点があった。どこか誤魔化されている気がした。もっといえば、妥協を感じた。作者は心からそれを信じているのだろうか、という確信を抱くことが出来なかった。むしろそれよりも、苛烈で厳しいが、綺麗事で飾らないイーオンの論理の方に心惹かれた。しかし、物語の中で八百万の神はミサキの意見に承服を示した。構成上、ここで楽土の存在を否定すると4巻に繋げることが出来ないと思ったのかもしれない。だが、もしも八百万の神に読者の存在が含まれているのであれば――この展開は厳しいと言わざるを得なかった。



この作品は、音導師と音導師の対立する論理のぶつかり合いを描いた物語であり、異なる思想・価値観を掲げるもの同士が言葉を武器に戦い、暴力なしで相手の意思を説き伏せていく、という構造をしている。ならば、この設定は人と人の対話を描きたいがために生み出されたものと捉えるべきだろう。音導師の対立構造はあくまでものの喩えであり、作者が描こうとしたのは人と人の間にある溝そのものにある。

当初、私はこのように考えた。多分、それは作者の狙いから大きく外れてはいなかったと思う。そういった側面は少なからず含まれていたと信じている。だから、読み間違えたとまでは思わない。ただ、それだけだと十分ではなかったことも間違いない。この作品が含んでいるのものはもう少し大きかったのではないか。

シン「あいつは多くの人を救ってきた。オレもあいつに救われた。なのに、あいつは自分は幸せになっちゃいけないと思ってる」
シン「大勢に感謝されることや、大勢の人を救ってきたことは、あいつの救いにはならないのか?」
母 「慰めにはなったでしょうが、救いにはならなかったでしょうね」
シン「どうして――?」
母 「どんな言葉も、受け取る側にその準備が出来ていなければ、その胸には響かないから」


このやり取りはこの物語において重要であると考える。このシーンだけを切り出して読み解いてみると、言葉を受け取る準備をしなければならない者とは、一見、読者のことを示唆しているように思える。先に書いてしまうが、例えばイーオンが音討議の果てに導き出した「生きていることは素晴らしい」という結論を、いきなり1巻で提示されていたとしたら、私は全く説得力を感じることができなかっただろう。作品の展開次第では、所詮理想論として受け取って終わりにしていたかもしれない。綺麗なだけの言葉は世界中に有り触れている。確かにたくさんの人が色んな形で「人生賛美」を謳い上げているのだから、生きることが素晴らしいことは間違いないのかもしれないし、その言葉には嘘偽りのない真実が込められているのかもしれない。しかし、だからといってその言葉をストレートに受け取れるとは限らない。唐突に人生は素晴らしいものだと言われても、本当にそうなのだろうかという疑問が付き纏う。だから物語は説得力の積み重ねを行うのであって、たとえ答えが普遍的なものだからといって、いや普遍的な結論だからこそ、そこへの理由付けは非常に重要であるはず。

だから私は、言葉を受け取る準備をしているのは読者なのだと考えた。4巻まで巻数を積み重ねてきたことで、それだけの下地が整った、ということなのだろうと。それも間違いではないはず。しかし、やはり十分でもない。ここには読者のみならず、作者自身の実感が強く込められている。読み終わったからこそ言えることだが、言葉を受け取る準備をしなければならなかったのは、作者もまた同様なのである。我々読者と作者の立場は現実世界において平等であり、物語を書く者と読む者という差異はあったとしても、「生きていることは素晴らしい」という言葉を額面通りに受け取ることが難しいのは、作者も同じだったのではないか。

「誰もが一度は人生の岐路に立つ。大事なのは自ら選択すること。そして後悔しないことだ。罵られても揺るがない。世界中を敵に廻しても構わない。どんな結果になろうとも、決して後悔はしないと言い切る覚悟だ」
「楽土に捕らわれたお前に、その覚悟はあるか?」
「友の命を奪った楽土を、お前は許せるのか?」


ヤコウは断罪するかのように、楽土の在り方を、そしてイーオンの在り方を否定する。そこには目を背けたくなるような厳しさがある。しかし、どこか言い聞かせるような含みもある。この言葉を否定してほしいように見て取れる。楽土の中から外に踏み出す覚悟を持つように促しているように思える。

あっているか間違っているかはともかくとして、穿ったことを書く。この作品は作者を取り巻く創作環境について書かれた物語である。楽土というのは作者にとって居心地のいい場所、つまり自分にとって肯定的な感想を投げかけてくれる人で溢れた場所のことを指す。そして楽土の外とは、自分の作品に対する厳しい批評の言葉が溢れている世界のことを指している。作者は、後者に対して、自分の作品と正面から向き合ってくれない読者に向けてメッセージを送り続けることに疲れ、前者に閉じこもろうとした。もしかしたら、自分の作品をわかってくれる人のためだけに物語を書こう、そんな弱気に駆られて全ての人に向けた物語を書くことを諦めかけてしまったのかもしれない。ところが、皆のためにではなく誰かのために物語を書いてみたら――思いのほか、全く楽にはなれなかったのではないか。そして、そんな作者に対して送られた読者の肯定的な感想は、作者にとっての慰めになったとしても、決して救いにはならなかったのでは。

音討議に勝利するためには、筋道の通った論理的解釈が必要だ。けれどそれ以上に重要視されるのが感情だ。感情は理性に勝る。最終的に人の心を動かすのは理論ではない。情熱なのだ。


この言葉には賛否両論あるだろう。私も全肯定はできない。しかし、感情の込められていない作品が私にとっての名作になりうるかといえば、まずもってそんなことはないと断言できる。少なくとも私の中で今なお胸に残り続ける作品には、何かしらの感情が確実に込められていた。熱意かもしれないし、悪意かもしれないし、ひょっとしたら諦観だったかもしれないが、間違いなく何らかの想いが存在していた。

なぜそんなことをわざわざ書いたのかといえば、きっと作者からはその情熱が――物語を通して読者に訴えかけようとする意欲が、失われかけていたからなのではないか。だからこそ、わざわざ宣言しなければならなかったのではないか。作者のためにも、読者のためにも。それが心の底からの気持ちだったのかはわからない。ひょっとしたら魔がしただけの話なのかもしれない。いくら念入りに読み込んでも、物語を執筆している作者の感情の動きを追いきることは出来ない。いくら後書きで心情が吐露されていても、逆に大したことが書かれていなくても、その背景にあるものを全て見抜く、なんてことが出来るわけはない。だから、あくまでも推測ではあるが――この推測は大きく外れていないのではないかと思う。

「オレに字名をつけてくれ」
少年はまっすぐにイーオンを見つめた。
灰色がかった青い目が輝いている。
この輝きを知っていると思った。これはリオンの目だ。ヤコウの目だ。世界の果てを見に行こう。そう飽きることなく語り合った、私達と同じ目だ。
「真の楽土には温もりがある。人の優しさが生きている。それがオレを救ってくれた。オレはもう十分に休んだ。だから今度は生きてみる。もう一度、生き直してみる。どこまでやれるかはわからない。けど、もう逃げない。どんな目に遭っても負けない。オレの人生、もう一度、オレの手に取り戻す。この音討議で、お前が勝っても負けても、オレはナナノ里を出る。イチノ里で働いて、金を溜めて、それから出散渡国に行く」


これまで幾度も傷つき、辛い人生を送ってきた少年の巣立ち。イーオンが心の底からその言葉を待ち望んでいたことは間違いない。確かにシンを癒したのはイーオンであり、楽土だろう。イーオンがいなければ、楽土がなければシンは立ち直ることができなかったかもしれないし、もしかしたら潰れてしまっていたかもしれない。しかし、イーオンにとってもシンの存在はやはり必要だったのだ。自分と同じく傷ついた存在が、傷を癒し、勇気を持って旅に出る姿を見届けることが。

「この十二年間、私はずっと思ってきた。生きることを楽しんではいけない。幸せになってはいけない。それが私の罰なのだと、真の楽土は牢獄だと、死人を閉じ込める棺桶だと、ずっとずっと思ってきた」
「あいつ、その棺桶に風穴を空けやがった」


もちろん、これらの文章を書き上げたのは全て作者自身である。シンの境遇もシンの人生も、やろうと思えば作者が自由自在に操ることができるのだから、ある意味ではマッチポンプみたいなものだろう。だから全てを額面通りに受け取るべきではないのだが、しかしここまでの私の推測が大きく的を外していないのなら、作者が自らの手でシンの人生を描き切ったという事実そのものが、作者にとって随分と救いになったであろうことは想像に難くない。イーオンと同じくらい、作者にとってもシンの成長は必要だったのだ。作者は理想と現実のギャップに悩み、苦しんでいたのだろう。だが、シンが新たな道を歩みだす人生を描いたことで、作者は自分の人生を否定せずに済んだ。そのうえで外に踏み出していく勇気を生み出すことも出来た。それはある種の自己陶酔であるが、同時に大きな効果を持った自己肯定でもある。

「世界は変わらない。人は保守的な生き物だ。一度平穏を味わってしまえば、危険を冒そうとは思わない。未知に憧れる気持ちはあっても、行動には移せない。明日からは変わろう、明日から始めようと思っても、人は日常から抜け出せない。お前の『音』がこの世の果てまで響こうとも、世界は何も変わらない。変革の夜明けなど、永遠に来ないのだ!」
「そうだ。この世界はいまだ夜の中にある」
「人々は悲しみと苦しみの中にいる。絶望の瞬間にいる者達は、永遠にこの時が続くのだと感じる。夜が明けることはない。自分はこのまま、闇の中で死んでいくしかないのだと」
「私がそうだった。私は罪を犯し、友を亡くした。楽土に捕らわれ、二度と外の世界に行くことは叶わぬ身となった。この十二年間、それを後悔しない日はなかった。いっそ友と一緒に死んでしまいたかったと、幾度思ったかわからない」
「それでも朝はやってくる。夜明けは必ずやってくる。生きてさえいれば、朝は必ずやってくるのだ」
「だからこそ、生きていることは素晴らしい」


ここで、最後の音討議パートに移っていくのだが――ここでの説明内容は、正直なところ、あまり納得がいっていない。特に違和感があったのは、楽土の必要性に関する論理的解釈の広げ方。イーオンが最後まで戦う気になったのは、シンが旅立つ決意をしたから。シンが旅立つ決意をしたのは、楽土があったから。その楽土を守る八百万の神の正体とは、子を思う親の心であり、大切な人を守りたいという想いであり、すなわち愛情だった。

つまり、八百万の神の存在⇒楽土の存在⇒シンの旅立⇒イーオンの決意、という論法になっている。感情的には、受け入れたくなるところなのだが、しかしどうしても引っかかるところがある。イーオンがシンの姿を見て活力を得たのは間違いない。シンがイーオンと楽土のおかげで傷を癒せたということにも納得できる。八百万の神が「愛」なのもよい。「愛」が楽土を守っているから楽土に価値があるという考え方もわかる。だが、「愛」が楽土を守っているから楽土は必要、という論理には、どうしても説得力が感じられなかったのだ。前半までは、作者にとっての命題と物語における命題ががっちり噛み合っていた。しかし物語の着地点と作者の苦悩が、本当に噛み合っていたのか疑問に思う。イーオンがその手で掴んだ答えと、傍聴者に提示した答えが同一ではないような気がした。

「人は孤独だ。誰もがたった一人で生まれ、たった一人で死んでいく。家族でも、心許せる友でも、愛する人でさえも、まったく同じ価値観を持つことは出来ない。同じ風景を見ても、同じ時間を過ごしても、完全にわかり合うことは出来ない」
「この世は完全ではない。親に捨てられ、愛を知らずに生きる者がいる。存在を否定され続け、孤立してしまう者もいる。そんな者達のために楽土がある。楽土は人に愛を与える。尊厳を教える。どんな人間でも、生きていていいのだと言ってくれる。なぜなら楽土を守る八百万の神とは、我らを愛する者達の魂だからだ。子を思う親の心。大切な人を守りたいという想い。それが八百万の神なのだ」
「自分がここにいるのは、自分の両親が、祖父母達が、さらにその前の祖先達が、悲しみに耐え、絶望を乗り越え、生き抜いてきた証なのだと。この体に流れる血は、その祖先達から受け継がれたものなのだと。八百万の神もそれと同じだ。この楽土を形作るもの。それは我らを愛し、守ろうとする者達の魂。それは今も我らに寄り添い、我らを守ってくれている」
「そうだ。人の愛は死なない。決して滅びることはない。季節が移ろい、時代が変わっても、楽土がある乖離、愛が消えることはない。この世に楽土がある限り、人が愛を失うことは決してないのだ」
「我らは人を愛し、愛される幸せを知っている。依存でも馴れ合いでもない。奪い合うだけの恋でもない。本当の愛を知っている。ゆえに我らは死した後、八百万の神となる。我らの子に、孫に。その先に連なる者達に、等しく愛を伝えるために。傷つき疲れ切った者達を優しく抱き留めるために。我らは皆、神となるのだ」


やはり、こうやって抜き出してみても、最後の結びの部分だけ多少飛躍しすぎているような気がする。しかし、これが作者にとっての決意表明だと受け取れば納得することができる。つまり、作者と楽土が一体不可分で語られていたところから、分離したのだ。ある意味で、それは物語が作者の苦悩から巣立った瞬間だと言えるだろう。





最後に後書きから抜粋しつつ、全体的な感想をまとめたい。

これは誰かのために書いたんじゃない。私自身がこの物語を必要としていたのだと。
私が書く話は万人受けする物語ではありません。それは自覚しているつもりだったのですが、現実は想像以上に辛く、厳しい出来事の連続でした。想いが伝わらない。理解されずに揶揄される。そのたび孤独に押し潰されそうになりました。まるでたった一人、深い井戸の底にいるような気持ちになりました。
それでも共感してくれる人はきっといる。どこかに理解してくれる人がいる。たとえ万人の共感は得られなくても、わかってくれる人が一人でもいてくれたら、それだけでいい。
どんなに夜が暗くても必ず朝はやってくる。どんなに冬が厳しくても必ず冬は廻り来る。
そう信じたかったのは、他でもない、私自身だったのです。


これは私見ではあるが、作者が自分の作品に自己を投影することは、ある程度の範囲であれば作品の質を高めることに繋がる。分を弁えた自己投影は、読者にとっても別の意味での価値を持つ。作品で貫かれているテーマに作者が救われたということは、大きな説得力となり、読者にとってのまたとない実感であるからだ。もちろん行き過ぎれば唯我独尊になり、わからない人にはわからなくてもいいと切り捨てる偏屈な作家になってしまうから、ほどほどにしなければならないことは確かであり、そういった意味では作者の後書きはギリギリ一歩手前と言える。もしも作者が誰もわからなくてもいい、という方向に傾きすぎていたら、この物語はずっと孤独で悲しい作品になっていただろう。

ラストでイーオンが死ななかったのは、本当の事を言えば少しだけ意外だった。これまでの作者の作風を思えば、彼女が亡くなり、シンが楽土から旅立つことで作品が完結してもおかしくはなかった。実際、それはそれで一つの結末としてありえたのではないかと思う。しかし、ここまでの積み重ねを踏まえてみれば、この結末以外が相応しかったのだろう。作者は物語の全てを(どこまで本当かはわからないが)書いてから刊行しているらしい。それが事実であれば、もしもイーオンが死んでいたら、そもそもこの作品は世に出なかった可能性が高いのではないだろうか。イーオンがまさしく作者の代弁者であるのなら、イーオンが死んでしまえば作者が読者に想いを伝えようとする心は折れたのだとも取れる。それはギブアップ宣言に近い。イーオンが死んでもシンがいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、しかし愛が永遠に続くとしても、意思が永遠に受け継がれるとは限らない。だから、これは大変喜ばしいことであるように思う。彼女が死ななかったということは、死に体だった作者が、再び前を向いて、これからも作品を描き続ける決意をしたということだから。

私の声は伝わるだろうか。
人から人へ、思いは繋がるだろうか。
いつか世界の果てまで届くだろうか。


秘めた志は高く、意欲的な作品であるといえる。タイトルの八百万の神は、きっとこの作品を読んだ人全てを指している。八百万の神に中には、私も、貴方も、そして作者も含まれている。作者は己の言葉で、遍く人に問いかけようとしている。
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