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悪の教典

 ホラー・青春小説・SF・ミステリと手広く手がける作家・貴志祐介の通算8冊目(上下巻は1冊でカウントしています)の新作。初めて著者の作品を読む人のために、過去作品を刊行順に一言二言の感想とともに紹介してきます。著者の作品を読了している方は読み飛ばしてください。また、詳しいストーリーが知りたければWikiへ、少しでも気になったら本屋へ行きましょう。


 デビュー作の『十三番目の人格ISOLA』は多重人格者をテーマにしたサスペンス小説です。著者の作品の中でもまだまだ荒削りな印象が強く、正直なところあまり内容を覚えていないのですが、確かな地力を感じさせる作品だったと記憶しています。

 2作目の『黒い家』は生命保険会社の暗部をテーマにした本格的なホラー小説です。執拗とも言える心理面の描写が素晴らしく、生きている人間の姿を生々しく描写しています。夏の日に読んで最後のシーンで心臓をびくつかせたのはいい思い出です。

 3作目の『天使の囀り』は前2作の良いところを抽出して練り込まれた著者のホラー作品集大成といえる作品です。あまり救いがある展開ではないのにも関わらず、ぐいぐい読ませていく魅力があります。ただし、多少のグロ描写があるため、あまり耐性がない人は注意。

 4作目の『クリムゾンの迷宮』は著者のこれまでの作風を生かしつつも新たな分野に挑戦した作品で、とてもゲーム的な小説です。内容は、あるゲームに巻き込まれた登場人物たちが、生き残るために武器やアイテムを利用して争いあうというもの。基本的な展開はサスペンスですが、今までの作品に比べると圧倒的にエンタメ性へと比重が傾いていて、そのおもしろさは途中で読み止めることが難しいほど。導入部で詰まることなく読めた人なら、最後まで一気に読んでしまうこと間違いなし。

 5作目の『青の炎』は、高校生の少年が家族と幸せになるために完全犯罪をもくろむという犯人視点の倒叙もの。これまでの小説とは一線を画しており、著者の器用さに唸らされます。相変わらずリーダビリティはとても高いですが、主人公は青少年特有の自意識を持っているためにかなり自己犠牲が強く、それ故にエゴもかなり強いので、そこが鼻につく人もいるかも。

 6作目の『硝子のハンマー』は元空巣の防犯屋と女弁護士が主人公のミステリ。著者の作品の中でももっともクセがない作品かと。なお、8作目の『狐火の家』は今作の続編的な作品となっています。

 7作目の『新世界より』は旧人類が滅んだ後エスパー能力を持った新人類が世界を支配する近未来を舞台にした長編SFです(ハードカバー版は上下巻、ノベルス版は1冊に纏められています)。著者の思考実験とも取れるような作品で、現在の価値観と新世界の価値観の対比が楽しめる。キーワードは想像力。また、バケネズミというキャラクターが登場するところも忘れてはならない。読者が彼らをどのように捉えるかによって、この作品の読後感は大きく変わると思います。

 以上が著者の過去作品紹介です。私が特に勧めたいのは『クリムゾンの迷宮』『青の炎』『新世界より』の三作品。当然嗜好にもよりますが、『クリムゾンの迷宮』はゲームやラノべが好きな人で、且つその中でも特に心理戦を好む方に、『青の炎』は暗い影を持つアンニュイな男主人公が好きという方に、『新世界より』は純粋に面白い本が読みたい方に向いているかと。基本的には全て水準以上の作品ばかりですので、一つが気に入ったらほかの作品も読んでみることを強くお勧めします。


 以下より悪の教典の内容紹介と感想となります。この先はシナリオのネタバレを含みますのでご注意ください。

 今作は私立高校の教師を勤める蓮実という人物が主人公です。上巻ではこの一見まともに見える蓮実という人物の異常性を徐々に描いていきます。蓮実というキャラの人物像がどのようなものなのか、蓮実の周囲で発生する事件を通して、少しずつ読者の理解を進めさせていく。下巻では自身の行動が原因で破綻してきた環境を、蓮実自ら破壊していくという展開です。ここまでくれば、蓮実の『悪』っぷりは十分理解できていると思います。

 蓮実という人物は、周囲の教師・生徒からの信頼も厚く、爽やかな英語教師として通っていますが、その実は冷酷無比の殺人者です(もっとも、蓮実から言わせれば『喜怒哀楽はあり、共感能力がないだけ』とのことですが)。最初は嫌悪感を抱かせるほどではありません。烏のくだりや、犬のくだりで『こいつちょっと変だな』程度の違和感は覚えるものの、それでもそこまで際立っておかしいという確信は持たせないし、生徒に対する態度からそれなりに好青年だと認識させられてしまう。このあたりは絶妙なバランス感覚で描写されています。

 当然、話が進んでいくごとに『こいつちょっと変だな』では済まなくなり、こいつはどうようもない異常者なのだと確信させられます。蓮実があっさり人を殺して、あっさり生徒と関係を持ち、息を吐くように嘘を吐き、平然と同僚を脅迫する姿には唖然とさせられますし、過去に殺している数が尋常ではないことが発覚する度に呆然とさせられます。こいつは一体何なのかと。しかも殺人の理由は大方が『あ、こいつ邪魔』程度のもので、普通なら殺人には到底至らないような動機です(普通なら、説得や脅迫といった展開もありえそうですが、そうはならない。蓮実にあるのは邪魔者は排除するという思考だけです)。思わず正気を疑いますが、蓮実は異常者でありながらも狂人ではないというのがおもしろいところでしょう。

 下巻で蓮実は自分の過去がばれそうになってしまい、そうなるくらいなら全員殺してしまおう!といういっそ清清しい思考で生徒達全員を虐殺する計画を立てます。あまりにもあっさりと。生徒を卒業させることが自分の最後の授業だとすら思っているあたり、薄ら寒い。

 蓮実はこの後の展開では、全てを殺し自分が捕まらないようにすること以外、何も考えていません。良心の呵責に苦しむ、という当たり前のシーンは一切存在しない。あまりにも淡々としているので、こちらの感覚が麻痺してきます。蓮実が異常者でありながらも狂人ではないということがよくわかるのがこういうところでしょう。一人殺しても二人殺しても同じだと、冷静に刑期のことを考えて殺人の方法を吟味しているところが心底恐ろしいです。他人を全てその他大勢として認識してしまうあたり、共感能力がないという供述にも頷けます。


 以上のように、今作は蓮実の人間性を考察していく作品です。読んでる間進める手が止まらず、最後まで一気読みしてしまったことからも、とても面白い作品だったことは間違いない、のですが、しかし幾つか不満点があります。

 不満点は大きく分けて2つ。

 1つがこの作品はあまり伏線が回収されていないのではないか、という点。作中には蓮実が過去を回想する場面がいくつかあり、その中に憂実という人物が登場します。彼女は中学生時代の同級生で、勉強ができない知恵遅れなのですが、唯一蓮実少年の異常性を見抜き、その上で関わりを持ちながらも蓮実から殺されなかったという稀有な人物でもあります。しかし、途中で彼女が自殺してしまったという事実がわかってから、ほぼ登場しません。確かに死んだキャラを登場させることは物理的に無理なんですが、しかしこれはあまりにももったいないというか、そっけない。憂実が蓮実に影響を与えた数少ない人間であることはまず間違いないわけですから、彼女を殺せなかった蓮実の内面をもっと考察してほしかった。それか、彼女が蓮実に与えた影響をもっと具体的に描写してほしかったところです。烏は伏線が回収されていないというよりも、途中まで意味ありげに出てきた割に、最後のほうではほぼ触れられていないのが気になります。メタファーとして利用しただけなのか、思考と記憶(フギンとムニンと読みます。蓮実が烏に名づけていた名前で、フギンは蓮実に殺されます)というそのままの意味で使われたのか、それとも私が読みきれていないだけなのか、最後までわかりませんでした。

 もう1つが下巻の展開そのものです。下巻では、蓮実がいかに生徒達を皆殺しにするかというところに主な焦点が当てられて、その膨大な分量のほぼ全てが殺人シーンに割り振られていました。リーダビリティの高さは徹頭徹尾維持されていましたが、前半の展開からすると、これだけ?という気分になる。もちろんつまらなかったのではなく、ぐいぐい読ませていく力は失われていないのですが、どうにも薄かった。ただ人が死ぬだけで、強烈な印象を与えるものがなかったといいますか。踏み込みが足りなかった、という感想が一番近いかも。

 私は、この作品は、後半場面で著者が描きたいものを描けていないのではないかと感じました。最初からパニック小説を書きたかったのなら別ですが、序盤の展開を見るにそうは思えない。なんらかの社会的なテーマを描こうとしていたのは間違いないはず。なのに、後半でそれを放棄してしまった印象がある。ただ単に描けなかったのか、それとも最初からこうする予定だったのか私にはわかりませんが、どうにも肩透かしといった具合でした。面白さとテーマ性を両立できる作家だと思いますので、正直に言ってやはり物足りない。

 また、下巻である生徒二人を殺したとき(あとでわかりますが、これはフェイクです)に、蓮実がきちんと生徒の顔を確認しなかったところに疑問が残る。何十人もの人間を殺してきて、思考が鈍ってきていたということも考えられますが、私でも入れ替わりを予想できるのに、蓮実が全く想像しなかったのはおかしいといわざるを得ない。今までの彼を見てきた限り、彼は異常者であり連続殺人者ですが、それにふさわしい冷酷無比でロジカルな思考を持っています。そんな人物がそのような甘い考えをするでしょうか(というか、危険なときに働くという野生の勘の設定はどうなったのか)。蓮実は途中からその場の勢いで行動するようになってしまっている。どうせなら、最後まで悪魔のように周到で冷静な手口を見せてほしかったところです。


 結論としては、エンタメ作品としてだけ見るなら十分面白かったのですが、貴志祐介ならではのテーマ性といいますか、深さがいま一つ足りなかった作品、といったところ。下巻いっぱい使われている殺人シーンは読み詰まることなく一気に読み終えましたし、とても面白かったことは間違いないのですが、幾つか納得できないところがあったのがとても残念。今回が貴志祐介の初体験であれば1も2もなくお勧めしますが、過去作品を読んでいる身としてはもう少し踏み込んでほしかった。それこそ、蓮実が捕まって終わりだとあまりにも普通の展開すぎます。この先にまだ何かがあればよかったのですが、終わってしまった作品にこれ以上を求めても仕方がないことですので、次回作を楽しみにして待っています。
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